都知事選で、家入さんがしてくれたことと、みんなの手元に残ったものと。


都知事選:選挙全体から見たときに

都知事選で、家入さんがしてくれたことと、市民の手元に残ったもの。

わたくし、原子力エネルギーには同意できないので、妥当に考えれば、宇都宮さんか細川さんを応援するのがスジなんだけど、ずっと、腑に落ちないことがありまして。

それは、
舛添さんを破るために、宇都宮さんに降りてもらって、細川さんに一本化しようとする声をあげる友人知人、知識人がとても多かったこと。

両陣営の批判合戦について踏み込んでもしょうがないので、それについてはここでは触れません。

ただ、善意によって、
「宇都宮さんじゃ勝てない」と言った・言ってしまう暴力性ってすさまじいな、と、わたくしドン引きしてしまいまして。

言ってみれば、
「ドラえもんとドラミちゃんは大体機能が同じだから、どっちかひとつでいいよね!」
という話だと思うのね。

本人の意志は?
本人への敬意は?

経済的にも、社会との関係性上でも負担を背負って立ち上がった当事者に対して、その敬意のなさがわたくしにはそら恐ろしい。

「これは選挙だから」とか、
「選挙は勝たなきゃ意味がない」とか、
「これで日本の未来が決まる」とか。

一見、オトナな意見があるのだけど、
箱を開けてみれば、宇都宮さんが2番手の得票だったわけです。

宇都宮さんじゃ勝てない、と言った人は、すごく、すごく失礼なことをしたと思うんです。自分たちの誇りを濁らせた。

なぜ、エスパーでも選挙屋さんでもないのに、自分にはたくさんの人の投票行動が読める、と感じ、同じ志を持って立ち上がった仲間に対して、「あなたじゃ勝てない」と言い切れるのか。

平和も愛もないじゃない。
そんなとこにわたくし、加わりたくない。

そういう決定をしたり、それに便乗することが、長い目で見たときに、人と人との信頼や、今後の日本の「選挙という記憶」を、傷つけることになると思うんです。

つまりは、そういったせまい大局観から、選挙や政治ってなんだか近寄りがたい、という種を蒔いてしまったことになる。

かたや、家入さんは戦わなかった

はじめから、準備期間が短かったり、見据えてるものが違ったのかもしれないけど、家入さんは、戦わなかった。

本人が戦う、と言ったとき、常にその相手は古き悪しき選挙制度であり、もしくは政治を遠くへ追いやってしまっている、功名なプロパガンダ群に対してでした。対象が特定の誰かではなかった。

ときどき、言葉足らずなので、ここだけ切り取ると伝わらないだろうな、という場面もあったけれど。

わたくしは家入事務所で、勝つよりもずっと大事なことを見た。

「より良い社会のため」と言って、ボランティアに励む義務感を持った人は、家入事務所にいなかったように思う。

「わたしの話を聞いてくれたから」「あのとき助けてもらったから」「よくわかんないけど面白いから」と口々に、みんな手伝ってた。そう、わたくし、こんなに楽しくて、脈動のあたたかな選挙ははじめてでした。

だってさ。
戦ったら、やっぱり辛いよ。
戦うってことは、自分のために相手を傷つけることなんだ、とあらためて学んだよ。

もう、時代はそんなとこにないんじゃなかろうか。
20代前半からの、戦わない世代が共有してる世界観って、そういうことなんじゃなかろうか、って思えるタイミングがたびたびあった。

そしてそして、開票後も家入さんは、やっぱり家入さんでした。

「今回の政策、知事じゃないけど勝手にやりますんで。」

(次ページ、開票後の家入さんの宣言について)


この記事の著者

テンダー

ヨホホ研究所主宰の、泣く子も訛る社会派ヒッピー。 電気関係、ウェブ、文章表現、写真、選挙、先住民技術、などが研究対象。 2016年のテーマは、持続可能性の本を書くことと、アウトフローを極めて綺麗にすること。