誰とでも自由に話せるのは今年の秋まで? – 対話の意味を再考する / 秘密保全法案 –
今日はちょっとまじめな話。
オープニングでダジャレを思いつかないくらいまじめ。
序にかえて
最小の対話の形が自問自答 = モノローグ、
それ以上は誰かを必要とする対話 = ダイアログ。対話という意味の英語、ダイアログ(dialogue)はギリシャ語から来ていて、もともとはディア・ロゴス。
ディア(dia)は通りぬける、ロゴス(logos)は意味。対話のもとの意味は、「場に流れる意味」というところ。
やすらぎはどこから来るの
学校に行ったり、職場に行ったりして、今日も一日疲れて帰ってくる。
帰ってきたら、家族や大事な人、愛する人や親しい人に、一日の、自分の話を聞いてほしい。
ごく日常的なことですよね。
すべての人とは言わないけれど、多くの人が欲するところではないでしょうか。
ではなぜ聞いてほしいの?
わたくしは「聞いた内容を了解してほしい」のではなくて、
その日一日の「自分の人生を共有してほしい」のだと思います。
個人の人生は、他者と共有することによって、はじめて歴史になりえます。
歴史は記憶であって、実際に何があったのか、ではありません。
記憶が歴史にかわるとき、不確かなことには変わりがないのだけど、なぜかほんの少しだけ確かな感じがしてくる。
自分だけが思っているわけじゃないんだ。「それ」は、あったんだ。と。
だから、誰かが「うんうん」と聞いてくれることは、それだけで話し手自身の自信を育むことになるのです。
また、共有することは、共感へとつながり、共感とは人生をわかちあうことです。
その日一日の波瀾万丈に、泣いたり怒ったり、喜んだり、相手に共感してもらえたとき、話し手は、自分の感受性を通して自分が認めてもらえたことを実感します。
「見て。あの海の色がきれいだよ」
「ほんとうだ。あの海の色、きれいだね」
この会話の根底に流れるこころは、決して海の色を評論したいわけじゃない。
あの海の色ををきれいだと思う きみの感性はすてきなんだよ。という言外の言が含まれていて、だからこそ、共有・共感することは、他者に対する自分の人生を挙げての全面肯定なのです。
表明して、肯定されると、安心する。
わたくしは、安らぎは、肯定されると生まれるように思う。
共有は共感につながり、共感は肯定を含み、肯定はやすらぎを生む。
だから、誰かと話をする。うんうん、と聞いてもらうことは、小さな平和の一部です。
もし気持ちのうえで、肯定がしづらかったら、共感を。
共感もできそうになかったら、共有を。
それだけで、社会はやさしく、世の中はずっと良くなるように、わたくしは思う。
コミュニケートすること
言い換えれば、「共有の不在」が ディス・コミュケーション、つまりは分断です。
今日あったこと、知ってることを、聞いてくれる人がいても共有しないこと。
何が何でも共有する必要もないし、秘密も必要なんだけど、共有の不在は、「する場合」と「させられる場合」があると思います。
自発的にする場合、これは、自分の人生に「誰かひとりぶんのすき間」を持たない状態。ただ、それぞれに事情もあるし、いたしかたないものでもあります。
誰かと考えを共有できないとき、
もし、相手に聞こえていないのであれば、それは、あなたの話す声が小さいからかもしれないし、相手の耳が悪いのかもしれない。
もし、相手に理解ができなかったのであれば、相手の理解力と語彙の問題かもしれないし、平易に話せないあなたのせいかもしれない。
コミュニケートはそれぞれに事情があって、だからこそ、寄り添うのは常に自分側。
自発的に人や自然と共有することをやめたとき、あなたの安らぎは色褪せる。
万人の万人に対する闘争を知覚するかもしれない。自分はひとりで生きていけると錯覚するかもしれない。
わたくしは、そんな人生をおすすめはしない。
ヒトでなくてもいいから、一本の樹でも、夕暮れの闇にでも、分かち合える感受性の余白は残した方が、人生は豊かだと思う。
それでも、自発的に共有しないときはまだ、余地がある。
だけど、問題なのは、「共有できないように」ものごとが運ばれたとき。
地域が廃れる前に、何がおきるのか。
わたくしは、今までいくつかの原発関連地に住んだり、長期滞在をしたことがあります。
そういうところで何が起きているか、というと、わたくしが一番の被害だと思ったことは、放射線や、安全性のことよりも、「地域のことを地域で話せなくなる」ということでした。
必ず、国策の側や、強い側は、コミュニティを分断するような方策を取ります。なぜなら、人のつながりが地域では一番、力になるから。
「生まれ育った場所に対する想い」はみんなだいたい同じなのに、地域を守る方法論の違いを、根本的な「人と人との相容れなさ」にすり替えていきます。
その結果、みんなが地域を愛して、よりよくするために色んな方法を論じていたのに、だんだんと、「あいつは原発推進だから」とか「あいつは原発反対だから」というように、方法論の違いを相容れなさにすり替えて、人にラベル付けをしていく。そういう土壌を作る。
その結果、人は疲れる。疲れるとあきらめてしまう。
一度そうなった地域、相容れなさに疲れてしまった地域は、お隣さん同士で地域のことが話せなくなっていく。自分たちの住むここをもっと良くしよう、という根源的な話を共有できなくなる。そうなると、あとはもう国策と行政のなすがままになりうる。
そこまで行っても、行かせてもいけない。
つまりは、国による市民への最大のテロリズムが、コミュニティの分断だとわたくしは思います。
もはや、テロリズムは、国から市民に向けられるようになった。
そんなことを国がするはずがない、と思うかもしれないけど、
今、こういう法案が国会に提出されました。秋には決定か、と言われています。
国は、わたくしたちから「共有するやすらぎ」を取り上げようとしています。
特定秘密保全法案や、情報を統制すること
特定秘密保全法案
国が指定した「特定秘密」を、知ろうとしても、教えても処罰される法律。
・「国の存立にとって重要な情報」を行政機関が「特別秘密」に指定する
・秘密を扱う人、その周辺の人々を政府が調査・管理する「適性評価制度」を導入する
・「特別秘密」を漏らした人、それを知ろうとした人を厳しく処罰する
(想定される秘密保全法制の内容 – 日弁連HPより )
しかも、「特別秘密」を扱える国民と扱わせない国民に2分するための「適性評価制度」という「国民選別制度」まで導入するのです。適性評価のための調査内容は、他人に知られたくないプライバシー全体にまでおよび、調査対象は、家族・親戚・恋人・友人・・と無限に広がってゆきます。
一番町法律事務所HP より
出回っている中で、一番わかりやすいと思った資料。
エッ!これもヒミツ?あれもヒミツ!あなたも「秘密保全法」にねらわれるQ&A(PDFファイル;3716KB)
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/himitsu_hozen_qa.pdf
特定秘密保全法案は、治安維持法の再来と言われる法案で、
国が指定した秘密は、「いつ」「なに」が指定されたかわからない。
その状態で、日常的な調べ物や、会話が(なんと会話まで処罰対象)この網の目にひっかかる可能性すらある。
それだけでもすごいことだけど、
・昨年批准されたACTA
→ (偽造品の取引の防止に関する協定:インターネットサービスプロパイダは、すべてのデータの3ヶ月保管&求められば提供する義務がある・ないで今のところうやむや)、・2012年3月の Googleのポリシー変更
→ (すべてのGoogleサービスの情報を、Googleアカウントに付随させる。必要があれば第三者に提供する。メール本文やクレジットカード番号含む)、・電通によるTwitterの発信者特定技術、
・本名じゃないとアカウント凍結される facebook、
などなど、
ここ近年でドタバタと変化した情報統制系の法律や技術やサービスは、同じところをめざしてるように思えてならないのです。
日常の会話を気をつけないと処罰される、なんてわたくしは受け入れられない。
やすらぎと処罰が隣り合わせであるなら、それはもはや、やすらぎとは言えない。
誰かと素直な想いを共有できない社会なんていやなのです。
じゃあどうする?
「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで 問題を解決することはできない」
アルベルト・アインシュタイン
対話、ディア・ロゴス、場に流れる意味。
人と話すことが犯罪になりかねない、これから。
わたくしは、秘密保全法案が通ったら日本には住めないと真剣に思っています。
もしくは、人がなかなか来れない山中でアンプラグドに生きていくかのどちらかだな、と。
だからこそ、それまでに何ができるか?
逆に言うと、わたくしたちの「パワー」は共有すること・力を合わせること。
なぜそこまで分断させたいのか、と言われれば、共有が果てしなく強いから。
かならず、これからアルファブロガーと呼ばれる、強力なブロガーへの規制もはじまると思います。
だから、分断させようとするようなものから敏感にいよう。
(選民思想、ラベル付け、右翼・左翼、売国奴などと言った、本質を伴わない罵詈雑言)
共有を分断させられそうになったら、共有で包もう。
まだ構想でしかないけど、良いロゴを作って、日本中のプロブロガーのみんなにトップページに掲示してもらおう。大手新聞社を越える広告効果があるはず。
お隣さんに話そう。これを機に仲良くなろう。
国政から地方から、議員さんととにかく話そう。理解してもらおう。
この法案が憲法に違反するとして、違憲審査してもらおう。
三宅洋平を見習おう!
まだ時間はあるから。
わたくしのお師匠さんである、
非電化工房の藤村靖之博士は言いました。
人類史上、ここまで民衆が力を持てた時代はありません。インターネットには罪もありますが、その功罪を四捨五入すれば、権力と渡り合えるツールとして、良いものだと私は思います。
先人からの 2000年の工夫の結晶を、むざむざと取り上げられたくない。
みんなでやりまっしょい!