生きることと死ぬことと、批判を止める「ちょうどよさ」という概念。


「ウサギはかわいい味がした」

ちはるさんがうさぎを食べて、ブログで「ウサギはかわいい味がした」と表現して炎上した昨年。
その後、本人に実際に話を聞いてみて、やっぱり、自分とは違うなぁと思ったこともたくさんある。

わたくしはわたくしで、以前、ひかれた猫を食べたときに、それはそれは炎上した。反省することは多々あり、悩み、そして自分にとって本質的なことは、さらに深まった。

shisei01
2011.5/11
死生観

こういったことを通して、考えが及ぶようになったのは、
屠殺を避けて、いのちを論じることができないのでは、ということ。

なぜなら、
おそらく自分のいのちというものは、他のいきものを屠殺して解体して、はじめて相対化されるから。

自分といういのちすら、瑣末なひとつの灯火に過ぎないことを、
他者のいのちを通して知るのだろう。

そして今、ちはるさんの話を聞いて、わたくしに共感できるところはできるし、響かないところは響かない。

そしてふと気付く。
久保さんも、ちはるさんも、わたくしも、みんなおんなじなのだ。

批判を止める「ちょうどよさ」という概念

久保俊治さん

久保さんは、長い狩猟生活の末に、自分のちょうどよさ、命とのちょうどよい向き合い方を見つけた。

それは一見、強烈に写るかもしれないけど、彼自身が編み出した最上のプロセスなのだろう。

ちはるさんは、システム化された暮らしを問うて、それから自分の手仕事に落とし込んだ。そのとき内から出てきた「かわいい味」という表現が、彼女にとってちょうどよかったのだ。

タヌキ帽子

わたくしは、ひかれた生き物を拾ってきて、きれいに精肉して、毛皮を取って、おいしく調理できるとうれしい。
多少肉がくさくとも、いのちの循環の輪に自分が与(くみ)したことの実感に、喜びを感じる。

つまりはわたくしにとって、それがちょうど良いのだ。

今話題の、虫食の彼も、きっと、虫食がちょうど良いのだろう。

そして、さらに思惟は連なる。

ちょうどよさは、祝うことしかできない

祝うことしか出来ない

もし、目の前のその人が、その人にとってのちょうどよさを見つけたとき、わたくしたちにできることは、祝うことだけなんじゃなかろうか?

「ぼくは、虫を食べるのがちょうどいいんだ」

ーー そう、それは良かった。世界にこんなにたくさんの物事があるなかで、自分にとってちょうどよいものを見つけられて良かったね!

というように。

自分のやり方と違うからといって相手を批判したくなったとき、
けれどそのやり方は相手にとっては、ちょうどよいのかもしれない。

そして、ちょうどよいことそれ自体は、批判ができない。

そのときに、その発見が仮に、反社会的だったり、誰かを傷つけるものであるならば、祝ったあとに、それから話合いができるはず。

今さら気付いたことだけど、批判する必要なんてもともとなかったのだ。

敬愛する阿蘇の吉田ケンゴさんは、今年に入ってから、しきりに自分がやることを、「これは共同作品だから」と言っていた。

他者のものも自分との共同作品と見なす心意気も、批判からは遠く、祝いの領域に近いものの気がする。

わたくしは、他者との流儀の違いを、倦(う)まずに祝えるようになりたい。

ウェブが、恵みの蓄積であるために

かたや、ネットの発言を見ていくと、なんと批判の多いこと。

誰々がこう言った、それは間違っている、無学だ、出直してこい、etc…

わたくしの愛する1万年前の技術には、批評や批判が伴って残ってはいない。
ただ、良い方法のみが引き継がれている。

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なぜなら、ただの「良さ」の前に、批評は無力だからだ。

検索して知り得た知見で誰かを否定するような時代は、長くは続かないだろう、とわたくしは思う。
そこに意味がないからだ。

賢い人たちは、じきに、本質的な良さを求めるだろう。だからやがて、普遍的な技術が深い意義を持つ日が来るだろう。

いくらでも積み重ねることができ、そして次の未来の1万年へと続くことのできる「知見」という財産を、批判や批評で埋めていってもしょうがないのだから。

願わくば、すべての議論が、「普遍的な良さ」を産むためのプロセスでありますように。

つづく!


この記事の著者

テンダー

ヨホホ研究所主宰の、泣く子も訛る社会派ヒッピー。 電気関係、ウェブ、文章表現、写真、選挙、先住民技術、などが研究対象。 2016年のテーマは、持続可能性の本を書くことと、アウトフローを極めて綺麗にすること。