死生観



生きるということは 本当に人それぞれで、何を持って生となすか、それ自体 とても怪しいものであります。

私が教えを乞いに行った北米先住民の文化様式では、すべてのものに スピリットが宿ると考えておりました。

スピリットとは邦訳が難しいですが、
象(ショウ)とでもいいましょうか、昔のくくりで言えば、八百万の神(やおよろずのかみ)となるかと思います。

火にも水にも空気にも、大地にも空にも、あなたにもわたしにも、スピリットは宿る、と。

なので、尊重する “単位” が命ではないのです。スピリットを尊重しなさい、と教えられました。

水を必要以上に飲まない、火も必要以上に焚かない、必要がなければ植物も切らない。

彼らにしてみれば、石を割ることと、植物を切ること、狩猟をすることは同義なのだと思います。
それは等しく スピリットを傷つけること。

近代の日本は、“尊重する最小単位” に命を選んだばかりに、モノを資源とみなすような文化を築いてしまいました。敬意の網目から、非生命は こぼれ落ちてしまったのです。
(場合に寄っては植物と虫類も。)


石油は資源、木材は資源、ウランも資源。
北米先住民は、それぞれにスピリットが宿るために、その所有者が人間であるとは考えません。所有者は、グレート・スピリット(=大いなる意思 / 造物主)であると考えます。

なぜ、私たちは、自由に石油を使っていいのでしょうか?

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「愛玩動物である / ペットとして認知されている種である猫を食べる」と、誰かからか非難を受けることがあります。


私たちは毎年、水田を眺め、風流だね、きれいだね、と楽しみながら、秋にはその実りを喜んでいただきます。植物は悲鳴をあげませんので、大人は ためらいなく刈り取ります。

髪を洗う一般的なシャンプーは、動物実験を繰り返して(ウサギの眼球に原液を垂らして、どうただれるかテストなどを経て)、ようやくできあがります。

フレンチブルドッグは、帝王切開での出産がほとんどです。品種改良の結果、頭が大きすぎて、自然分娩ができません。

食肉市場の豚の屠殺ラインでは、職員さんはイヤーパッド(耳栓)をつけます。豚の悲鳴で鼓膜が破れるからです。その豚たちは、おそらくどこかの牧場で、おいしくなるよう一心に、端正込めて育てられたのでしょう。

命ってなんなんでしょう。
食ってなんなんでしょう。


幕末の武士、山岡鉄舟は、泥酔した弟子の吐瀉物を平然と すすったと言います。浄と穢(ケガレ)に区別はない、と。

スピリットがどうの、と言う以前に、私たちの文化は、たやすく命を扱うようになりました。アニミズム(精霊信仰・万物に崇拝すべきものが宿るという思想)が 敬語を生み出した、と私は考えておりますが、精霊信仰も、もはや近代の “命信仰” すらも薄れ、“人間信仰” に移って来たように感じます。

所有という概念は、
所有物に対して、傍若無人に振る舞っていいことを許可する通行手形になりがちです。
愛玩動物ということば自体を、私は受け入れることに抵抗があります。自らの愛するものを「愛玩」と呼んで はばからない感性は、より限定された “自分信仰” から来るのではないでしょうか。

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私は、シャンプーを使いませんが、野生肉は食べます。私にとっては、野生肉を食べるより、シャンプーを使うことの方に抵抗があります。

「かくあるべし」は人それぞれではありませんか?
だから、私も猫肉を広く食ってくれ、とは全く思いません。価値観のひとつとして、あらわれただけであります。

ひとたび慣れれば 目を背けていた一葉の死から、寄生虫の処理、鮮度の見分け、捌き方、保存法、皮なめし、たくさんの学ぶことが見えて来ます。

同じように 三味線のための猫皮選びとその精製法も、途切れることなく、ずっと祖先から受け継いできたのだと思います。

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時間が許す限り、礫死体を見たら(そしてそれが食べられそうになかったら)、私は土のあるところまで手で持ち上げて運び、穴を掘り、埋めます。

敬意を、持ちたい。

無骨な焼却炉で他のものと一緒に焼かれるより、彼/彼女が 生きた証しとして、土に還り具体的に何かを育む方が、私にとっては嬉しいのです。

今までに 礫死体を埋める人に、私は会ったことはありません。食文化や、猫に対する愛や、どこかで拾った論拠などで話し合うのではなくて、つまりはその人の口ではなく が動いて、具体的に何を持ち上げるのかが重要だと思うのです。

でも、私は そのことを人にとやかく言ったりはしません。その人にはその人の生、私には私の生があります。

ただ、誰であろうと、
生きることと、死体を食べることは同じことです。このことが今まで一度たりとも、違ったことはありません。

私たちは、死体を食べて生きています。
この先もずっと。
何かが死ぬことが、変わりなく自分の生に結びついています。


この記事の著者

テンダー

ヨホホ研究所主宰の、泣く子も訛る社会派ヒッピー。 電気関係、ウェブ、文章表現、写真、選挙、先住民技術、などが研究対象。 2016年のテーマは、持続可能性の本を書くことと、アウトフローを極めて綺麗にすること。