三宅洋平に見るデザインと伝達。- 選挙のジレンマを越えるのか –


七夕ですね。暑いですね。今日は、彦星と織姫は出会えそうですね。良かった良かった!

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はてさて、ミュージシャンの三宅洋平
参院選に出馬中なのだけど、その選挙手法が本当にすごい

三宅洋平(みやけようへい / Yohei Miyake、1978年7月24日 – )は、音楽家。ベルギー生まれ(岡山系山形移民2世)・日本人。早稲田大学第一文学部出身。

90年代後半から10年余り、伝説的なレゲエロックバンド”犬式 a.k.a.Dogggystyle”のフロントマンとして活躍した後、様々なソロ活動を経て2010年満を持して”(仮)ALBATRUS”を結成。その期待値の高さから、音源未リリースにも関わらず様々なフェスへ引っ張りだことなり、その圧倒的なライブパフォーマンスと昨年発表された1stアルバム”ALBATRUS”は各方面で絶賛されている。

少し前のこと。5月30日に行われた、三宅洋平独演会を観に行ったのだけど、それはそれは素晴らしかった。
今日はそれが、「なぜ素晴らしかった」のかを考察しますよ。

今までの選挙での、表現すること・伝えること

わたくしテンダー、今までいくつかの選挙をお手伝いしてきました。がっつりブレイン的な感じから、デザイナー、広告をうつ、カラス(ウグイス嬢の男版)、撮影班、映像班、整体屋、ウェブ、ライター、まあいろいろ。できるスキルを使って、全身全霊でお手伝いしてきました。

そういうわけで、立候補予定者さんに会うと、
「この人の“何”が、多くの人にとって、魅力になるか?」という観点で人物を見ます。

本人が提供する(できる)ものと、その選挙区の市井の人との受け取るものがうまくマッチングされれば、言うことなしですよね。
ところがどっこい、なかなかこのシンプルなことがうまくいかない。

いくつかの選挙を見てきて感じるのは、
本人が提供したいもの(信念であったり、想念であったり、怨念であったり)が、
多くの人の求めるもの・欲しているものではないことがほとんどです。

それは、ひとつは立候補をする、というその時点で、
立候補をしない 99.99%以上の人と温度差があるものだし、

立候補するような人はそもそもよく勉強をしているから、
町の人を啓蒙しがち・教育しがちになる、ということだと思うんです。

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たとえば、
「今、みなさんが置かれているのは危機的状況です!それを打破するためには、◯◯党の公約、◯◯を受け入れてはなりません!」
といった言葉、街宣カーや街頭演説で本当によく聞く言葉だと思うんです。最近はわたくしの周りの Facebookでもよく見かけます。

でもこれは、候補者や発信者が言いたいことであって、町の人が聞きたい、知りたいことではない、とわたくしは思う。

多くの人が、10年後の安定より、現状の快・不快を基準にものを考えます。
だから、選挙カーが鳴らす音は、何がどうあれうるさくて不快だし、それは基本的に内容とは関係のないものです。

つまり、表現と伝達は違う、ということです。このごく基本的な観点がそこからは失われていて、これは、わたくしがお手伝いしたほとんどの選挙でそうでした。というか、立候補者はほとんどの場合、伝えるプロじゃないからどうしていいかわからないのだとも思います。

よく見られるのが、

  1. ・チラシを配れば伝わると思う
  2. ・街頭演説をすれば伝わると思う
  3. ・選挙カーがたくさんまわれば伝わると思う。

といった思い込み。こういったことをするときは、母数で勝負になりがちです。
伝えられる可能性が低いから、1000人より10000人、10000人より100000人、と伝えるマスを広げて、だからより伝わった、とする強引なものの考え方。

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こういう手法には敬うべき他者は存在しません。多くの人を、「自分に入れてくれるコマかどうか」としか見ない視点であり、そういう視点には往々にして大義名分がある。
「みんなのために」制度を変える、国を変えるんだ。と。

それはもはや、「念」のレベルであって、人に対して優しくない。
2007年の青森県知事選でわたくしが学んだのは、人に伝えるときは、
「想いを念にしてはいけない」ということです。
信念、執念、怨念。どれも重すぎる。それを市井の人は、ほぼ間違いなく欲していない。


「わたしはこう思っています」と表現することは、伝達ではありません。
伝達は、「わたしはこう思っていて、だからこうしている」という生きざまのようなものが、空気を震わせて、その波が じぃんと聞き手に沁み入ることであって、生半可なものじゃない。

「今日もこうやって、声を枯らしながら皆様にお伝えしているのは」なんていう選挙演説は、ひとりひとりからは、とても遠く、冷たい場所にあります。

ポイントをまとめると、

・表現と伝達は違う
・伝えたいことは、みんなが欲していることか
・想いが「念」になっていないか

表現が、場合によっては伝達になる、という悠長なことを言っていられる選挙の現場は、ほとんどないと思います。
伝達は、それ自体の目的によって、発せられた瞬間から伝達である、と思うのです。

三宅洋平の言動

ひるがえって、三宅洋平。
わたくしが、「おおお!」と思ったのは、一年以上前に、彼の歌う「マラドーナ7人抜きの唄」を、Youtubeで見たとき。
)

「聞いてくれて、何かを感じてくれれば嬉しいです」といった、青く余地のあるもではなかった。ただただ強烈なメッセージ、聞き手ひとりひとりに対するメッセージを大勢に伝えるための技術としての音楽、叫び。

こういう時代にこういう人物が出てくるのか、といたく興奮したのを覚えています。何より、インディーズで成功したミュージシャンは伝達のプロ以外の何者でもない。

熊本で彼に会った時、彼は
「CDの売り上げが、僕の支持基盤です」と言った。
推して知るべし。

今まで、わたくしがお会いしたなりに、強い政治家は、強い叫びを持っています。政策がどうの、というよりずっと前の段階で、場に対して、自分の昂(たかぶ)りを聞き手に共有「させる」力を持っています。

辻元清美さんの演説は、JRの街頭演説で聞き手が感動して涙を流した。
橋下徹さんの演説は、聞いてると、怠惰な公共機関に対して腹が立って来た聴衆が怒り出す。
・鹿児島市議の野口英一郎さんの議会質問は、否応なく手に汗握らせる。昂らせる。

個人の実力と、党は何の関係もないし、
政策すらも関係ない。

ただ、彼ら・彼女らですら選挙は苦戦する。
「伝えること」が現実には、選挙という制度に対してパワフルではないから。
ひとりひとりに伝えなきゃいけないのに、ひとりひとりに伝えていたら(時間がなくて)勝てない。

これが選挙のジレンマです。

間接民主制の限界と、選挙制度、表現と伝達の違いを重視しない公教育、そういったものの合流地点がここにあり、それを越えるために、みなさん奇をてらったり、変な選挙ポスター作ったり、まあいろいろと涙ぐましく試行錯誤する。

ところが、三宅洋平は、いともたやすく越えてのけた。
魂を揺さぶって、一同の賛同を一気に得る。思えばそれが、間接民主制の発端ではなかったのか?

聞き手の快は、ノリであってビートだ。きれいなハーモニーを欲している。
だからそれを提供する。だから信頼を得る。

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なんてシンプルなんだろう。
今、彼の選挙運動は選挙フェスという名の野外ライブ全国ツアーだ。

圧倒的なハイトーンボイスに、自身の思想と哲学をのせて、ビートで伝える。新しい選挙。

三宅洋平はわかっている。
表現と伝達は違う。
伝達は生易しいものじゃない。
全ての人に、優しいものだ。

その優しさの一部始終は以下より。

参院選の投開票は、7/21。
三宅洋平は言った。

「応援してますってよく言われるけど、逆だ。
僕が、背中を見せて、みんなを応援してるんだ。
こんなやりかたもあるぞ、って応援してるんだ」

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合わせて読んでほしい研究:2012.12/20
大阪で選挙してました

この記事の著者

テンダー

ヨホホ研究所主宰の、泣く子も訛る社会派ヒッピー。 電気関係、ウェブ、文章表現、写真、選挙、先住民技術、などが研究対象。 2016年のテーマは、持続可能性の本を書くことと、アウトフローを極めて綺麗にすること。